汽車から電車へ

かつての国鉄や、民営化直後のJR、その列車・電車を「汽車」と呼ぶ人の数は当時少なくなかった。機関車の牽引する列車のみを指すのではない。いまでも地方においてはそうなのだが、各家庭に配られた駅の発車時刻表 (駅前食堂・旅館によく貼られている) を確認した上で発車時刻に合わせ駅へ赴く、そんな「汽車ダイヤ」で運転されていた時代の名残だったろうか。対して民営鉄道は「電車」とよばれ、国鉄と並行する路線ではそれより駅数が多く、本数も頻繁だった。「電車」は短距離、「汽車」は長距離の移動という棲み分けが自然に存在していた。
その関係が変わりだしたきっかけが、1982年に広島地区で登場した「ひろしまシティ電車」。広島地区の山陽本線 (糸崎・三原~広島~岩国) で運転されていた電車 (もと急行形153系による快速電車もあった) を、編成短縮する代わりに本数を1時間3~4本へと増やし、駅の発車時刻を統一して「時刻表いらず」とした。幹線では「エル特急」化による多頻度運転がすでに進行していたが、1980年代にはそれが地方の普通列車にも拡大しはじめた。

モハ114-3010

モハ114-3010

  • 山陽本線 西条←八本松 2010-12
  • D700, AF-S Nikkor ED 80-200mm F2.8D, ISO320

このとき増備されたのが、山陽地区で広く見られる近郊形・115系直流電車の3000番台。性能は特に変わらないが、観光地宮島を擁すること、広島電鉄 (路面電車だが宮島へ向かう路線でもある) との競合もあって、アコモのグレードアップが図られた。2扉車に転換クロスシート (車端はロング) を配置した車内は、新快速に投入された117系に匹敵する、当時の普通列車としてはトップクラスだった。
全車3000番台で統一された4連のほかに、従来車の短縮によって捻出された中間車 (111系も含む) に連結するためのクハ (冷房準備工事車) も増備され、列車増発に対応した。塗装は国鉄標準の湘南色から一転、クリームに藍色の帯を締めた「瀬戸内色」となり、地域塗色のさきがけでもある。

モハ115-3509

モハ115-3509

  • 山陽本線 西条←八本松 2010-12
  • D700, AF-S Nikkor ED 80-200mm F2.8D, ISO320

さてここでひさしぶりの「まさがいちがし」。同区間で同じ方向 (いわゆる山側) から撮影した2両のモハを並べてみたが、何か違和感を覚えるところはないだろうか。
正解を明かしてしまうと、じつは下の車両は3000番台がお手本にした117系電車だった車両なのだ。JR発足当初まで新快速に活躍した117系も、221系に交代した後はローカル路線へと身を転じ、さらに編成が6両から4両へ短縮されたため中間のモハユニットが余ることになった。これらは岡山・広島地区へ異動して115系に併結できるよう改造され、モハ115・114の3500番台となった。

両者の違いはどこにあるのか。制御器が異なるといったメカ的な要素はここでは省くとして、外観でわかりやすいのは台車だろうか。115系はコイルばねだが3500番台は種車の117系と同じ空気ばね台車を履く。そのほかには車端部行先表示器の場所、パンタグラフ (3000番台は当初から冗長性確保のため2基搭載だった)。一見同じだが窓 (ユニットサッシ) の形状も実は違う。室内では座席配置 (ただし3500番台も一部座席がロング化された)、天井構成や照明の蛍光灯(3500番台はカバーつき) に相違が見られる。
あとひとつ重大な(?) 違いというのがじつは形式そのもので、両方ともパンタ付きだが前者がモハ114、後者がモハ115である。電車のユニットは主制御器を持つ車両を奇数とするのが国鉄式だが、111・113・115系は偶数形式にパンタを載せたのに対し、117系は奇数形式に配置したためだった。なお屋上は前者にベンチレーター(通風器)、後者に新鮮外気導入装置があって判別ポイントのひとつだったが、現在はどちらも撤去されているため違いはほとんどわからない。

「ひろしまシティ電車」の成功はすぐに他地域へと波及、北海道から九州まで各地方都市の「汽車」が相次いで「電車」化され、イメージアップとして愛称の設定や塗装変更が行われた。それらは民営化後四半世紀たった現在にも受け継がれ、並行する私鉄と競合するようになったケースも少なくない。
賛否両論もある地方色は、ともかく車両のバラエティとしては非常に豊富にしてくれたものだ。その変化のきっかけであった広島地区が、塗装の単色化という画一回帰の先頭に立っているのは何かの因縁なのだろうか。

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